242372 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

消失を彷徨う空中庭園

消失を彷徨う空中庭園

第一章 赤い花

 高山特有の冷たい風が、ぶつかるようにしてすり抜けていく。
 冷たく拒んでいくようなそれは、人間の進入を嫌っているのかも知れない。
 そう思えるほど、今日の風は冷酷で、機嫌が悪いようだった。
 だが、松尾サラはそんなことは意に介してない様子だった。そして原野の花畑の中で、誰に言うでもなく静かに呟いた。
「やっと。見つけた。私の仇……」
 サラはしゃがみ込むと赤い花に左手を添えた。
「話に聞くより、あなたはずっと美しいのね」
 花に優しく触れてから、しばしの間見とれていた。ほんの一瞬の甘い静寂だった。
「君の探していたのはそれなのかい?」
 少し後ろから、洞島一樹がそれを見て訝しげに尋ねた。サラもつられて表情を曇らせた。
「ええ。それより、花畑に入らないでって言わなかったかしら。それに、白い花を傷つけてはダメよ」
「しかし、こんなに野生の花が一面にあるんだぜ。こいつがもし自然のものだとしたら少し不可思議だな」
 洞島の言うとおり、辺りはほぼ見渡す限りが白い花に覆われていた。緑の上の白が、とても窮屈そうに一面に詰まっている。異常なほどだ。元々高山植物は、平地ほど密集して花を咲かせないものだ。そして、洞島は去年この場所に来たときは普通の高原植物しかなかったはずだった。しかし、現在、それらは全て浸食されていた。

「全く、驚きだぜ」
 言いながら、洞島は花畑に入り込んでいる。
「油断しないで。この花はあなたが思うよりもずっとデリケートで、かつ危険な植物なのだから」
「わかったよ。それより、その花だけ赤いんだな。この中心で一輪だけ目立つぜ」
「洞島さん。あんまり口出しが過ぎるのは契約違反よ。あなたは自分の仕事に徹して頂戴」
 背中で洞島に言いながら、サラは赤い花を根ごと採取してケースに移し替えた。
「はいはい。そうだ、俺は確かにただの案内人だ。あんたの目的には興味もないし、契約条項は守るぜ。ここで見たことも夜には忘れちまらあ」
 サラは何も答えなかった。ただ、黙々と今度は白い花を採取していた。そんな様子に洞島は呆れていた。
「ちっ。俺には花を傷つけるなって言いながら、あんたはいいのかよ。ここは国立公園の範疇だから、採取だって認められないはずだぜ」
「私は国家研究機関の研究員よ。オアシスフラワーに関するあらゆる権利と研究の自由が嘱託されてるの。無論、採取の自由もね」
「オアシスフラワー?」
「そうよ。身内の俗称だけど。花がどういう訳か場所を移動するからそう呼ばれているの」
 確かに去年はこの場所にこんな花は一輪もなかった。しかし、そんな移動する花があるとは聞いたことがない。
「ごめんなさい。詳しくは何も言えないことになってるの。今聞いたことも、忘れて頂戴ね」
「ああ、もちろんだ」
 群生している草花がまるごと移動するなんてあり得るだろうか。しかし、確かにそう思わせるほど、一瞬で一面にこの花はやってきた。
「あんまり考えないで。このことはまだ秘密なの」
「ああ。悪かった」
「さあ、帰りましょう」

松尾サラは植物学者だった。元はアメリカ人だった。アメリカの大学で博士号をとった後、数々の論文が話題となり一躍時の人となったが、その後は表舞台から姿を消した。そして、日本人の若い弁護士と結婚し帰化する。一時は引退したのだが、夫の死後復帰。紆余曲折を経て、現在日本の国立研究所の中でも一目置かれる存在とまでなっている。
「田島さん。本当に大丈夫なんですか。こんな女にあんな重要なこと任せっきりにして」
「木田君は不満があるのか?」
「不満ってほどのものでもないですけどね」顔をしかめながら、体裁だけは言いにくそうにして言った。「みんないい気分じゃないはずですよ。どうしてよそ者の、それもアメリカ人にこっちのデータ全部晒してまで重要な仕事預けて。俺達だって、そこまで役立たずじゃないですよ」
暗に秘めていた本音を、とうとうぶつけたという感じだった。
「ふむ。だが、彼女はアメリカであの花を研究していたのだ。このことは言うまいと思っていたがな」
「アメリカで? まさか、あの花はアメリカ……いや、もしかして世界中にあるんですか?」
「君には何も言ってないがな。だが、覚悟したまえ。オアシスフラワーに関する機密事項は君が思う以上に多い。人類へ降り注いだ、二十一世紀最初の災厄かも知れないな」
木田はしばし絶句した。


© Rakuten Group, Inc.